「顔の浮かばんまま、判は捺さん」…親父が稟議書を一晩預かった理由

「顔の浮かばんまま、判は捺さん」…親父が稟議書を一晩預かった理由

事業承継で二代目が受け継ぐべき、先代の「存在論理」とは?

合理化計画の一環としての、自動化の稟議書は、どこから見ても完璧でした。
二年計画で進めて、手元の現金も半年分を残してあります。
前回、父親から学んだことを、そのままの形に落とし込んだ計画になっているはずでした。

それなのに、満を持して見せた計画書に、会長は判を捺しませんでした。
「そうか…わかったが、一晩、預からせてくれ」

翌朝、会長が口にしたのは、意外な一言でした。
それは、機械の性能でも、費用でもありませんでした。

「ところでな、シゲには、誰が、いつ話すんか?」


30 Seconds Summary

先代の判断の中には、数字では一点の曇りもないのに、なぜか最後の一押しだけが止まるものがあります。

デコーダーとしてその「止まる瞬間」を解きほぐしていくと、そこには、会社が何のためにあるのかという、いちばん深い一線が見えてきます。

この記事では、私が提唱した「経営深層論理(DDL)」と呼んでいる三つの層のうち、最後の「存在論理」をデコードします。

「あそこだけは、値上げはせん」(信用論理)
「金は、寝かせとけ」(生存論理)
これに続く、同じ親子の三部作の完結編になります。


この記事は、あなたのために書きました

拓也さん(仮名)、44歳。
包装資材の製造会社を、父親から継いで5年目です。
(5年とはいえ、自他ともにまだまだ修行中扱いです)

業務の実例を通して、値上げの件でも、手元の現金の件でも、父親の判断の奥には、勘と言う曖昧なものではなく、決まった「型」があることを知った拓也さん。

今回は、自分なりに、学んだその型を守った計画を立てたつもりでした。
もちろん、本人は自信満々です。

それでも、判は捺してもらえなかったわけです。

この記事は、そんな拓也さんのために書きました。
そして、「これまで学んだ理屈は全部そろえたはずなのに、なぜ親父は首を縦に振らないのか?」と、モヤモヤしている、“あなた”のための記事でもあります。


いちばん「綺麗ごと」に聞こえる層

ここで、経営深層論理(DDL)の三層を、もう一度、すべて並べておきますね。
このシリーズを読んでくださった方は、サラッと読み飛ばしていただいて大丈夫です。

層問い判断に表れるとき
生存論理どうすれば、この会社は生き残れるか資金繰り、投資の見送り、撤退の判断
信用論理誰との信頼を、何を犠牲にしても守るか値決め、取引先の選び方、約束の守り方
存在論理この会社は、何のためにあるのか「それだけはやらん」という一線

ただ、正直に言うと、今日紹介する「存在論理」は、この三つの層の中でも、いちばん扱いの難しい層なのです。

「会社は社員とその家族のためにある」
「地域に必要とされる会社であれ」

どうですか?
これらは、言葉にした途端、どこかの経営理念の額縁で見たような、綺麗ごとに聞こえてしまいませんか?

二代目が、「そんなことは、わかってるよ」と内心で白けるのも、無理はありません。
彼からすると、その言葉は「対外向け」のきれいごとにしか聞こえないのです。

でも、先代の持つ「存在論理」は、そんな額縁の中に納まったものではなくて、日々の業務の中で「決裁印を捺す」という、その一瞬の中にだけ現れるものなんです。


実は、ここからが面白いところです

拓也さんからのご依頼で、私が、会長のお話を伺ったときのこと。

ここでも当然のように稟議書の話は、あえてしません。
仮に「なぜ判を捺さなかったんですか?」と聞けば、「まだ早いんじゃ」くらいの答えしか返ってこないのは、わかりきっていたからです。

私は代わりに、こう聞きました。
「これまで、いちばん判を捺すのが重かった稟議は、何だったか覚えています?」

会長は、しばらく考えて、リーマンショックの年の話をゆっくりと始めました。
受注が三割も落ちて、同業者が次々に人を減らしていた頃の話です。

会長の机にも、人員整理の案が上がってきたことがあったそうなのです。

「あの時はなぁ、数字だけ見りゃあ、それが正しい選択じゃった。わしも、判を手に持ったんよ、正直言うとな」

そう呟くように言ってから、会長は、ふと黙りました。

「……そう言えばなぁ、あの時も、判子を持ったまま、名簿を一枚ずつめくっとったんよ。名前を見るとなぁ、顔が出てくるんよ。そいつの嫁さんの顔も、さらに子どもの顔もな。結局、その晩は、どうやっても捺せんかったのぉ」

翌朝、会長は人員整理の案を差し戻し、仕事のない日は、みんなで機械を磨き床を清掃させることにしたそうです。

前回の記事で、古参の班長が拓也さんに話してくれた、あの話ですね。
そして、その「古参の班長」こそが、実は、今回のシゲさんなのでした。

半年分の現金という「生存論理」が、人を切らずに済む「時間」をつくり、その時間の中で、「存在論理」が最後の判を止めていたわけです。

そして、会長は少し笑って、こう続けました。

「シゲはのう、去年のクリスマスに、孫を抱っこしとる写真を見せてくれたことがあるんよ。ほんまにええ顔しとったよ。……昨日、あの稟議書を見とったら、あの写真が目に見えるように出てきてなぁ」

それを隣で聞いていた拓也さんは、黙って、うつむくしかなかったようです。
拓也さんの頭の中で、シゲさんは「検査工程の超ベテラン」でした。
ところが、会長の頭の中では、孫を抱いて笑っている、一人の祖父だったのです。

会長の「それだけは、やらん」は、「人を切らない」という拘りから生まれた決まりではなかったのです。

「人の顔の浮かばんまま、判は捺さん」という一線だったのです。


なぜ、先代には「顔」が見えるのか?

ここで少しだけ、私の専門でもある心理学の話をさせてください。

ちょっと専門的になりますが、「身元のわかる一人」効果(identifiable victim effect)と呼ばれる現象があります。
経済学者のトーマス・シェリングが1968年に指摘し、その後、スモールとローウェンスタインらの実験(2003年)で確かめられたものですが。

人は、統計上の大勢よりも、顔と名前のわかるたった一人に、ずっと強く心を動かされる、という知見です。
とてもシンプルでわかりやすいですよね?

普通だと、これは「判断を情に流させる偏り」として語られるパターンです。
でも、会長の場合は、少し違います。
おわかりでしょうか?

会長は、40年かけて、数字の向こうに一人を見る“訓練”を、無意識のうちに習慣として身体に刻み込んできた人です。
だからこそ、一枚の稟議書の後ろに、社員の顔、その家族、さらにその先まで、自然に見えてしまうわけです。

「存在論理」の「円」の広さとは、つまり、判を捺す瞬間に、どこまでの顔が浮かぶかということなんです。

これは決して、拓也さんの円が狭いとか、人間性が劣るとかという話ではありません。
当然、拓也さんにも、シゲさんの顔は浮かんでいました。
ただ、それは「検査工程に立っているシゲさん」まででした。
それは普通のことです。

ところが、会長には、その後ろの家族の食卓での笑顔まで見えていたわけです。
この違いは、優しさの量ではなく、見えている奥行きなんですよね。

もちろん、拓也さんに、今すぐ同じ広さを持てと言うつもりはありません。
これは理屈で身に着く話ではありませんから。

これだけのものを背負っているという重圧を、逆に自分の力にできるくらいまで、その円が自分のものになるには、10年以上かかって当然なのです。

ただ、最初の一歩なら、今日からでも踏み出せます。
それは、決裁などの重い判を捺す前に、一人だけ、顔を思い浮かべてみることです。

これはむしろ、この記事を読み終えた瞬間から意識すべきことかもしれません。


拓也さんが出した答え

その日の夕方、拓也さんは、自分でシゲさんに話をしに行きました。
後で拓也さん本人から聞いたことですが、その判断は、会長に言われたからではなくて、このことだけは「自分の口で話さなければ」と思ったからだそうです。

自動化の話を聞いたシゲさんは、意外なほど落ち着いていたそうです。
そして、こう言ったそうなのです。

「機械の精度はええですよ。0.01ミリの寸法なら、わしらじゃ絶対に勝てんからね。でもね、機械は、決められた寸法から外れたものをはじくだけなんです。わしらはね、外れそうなものに気づけるんです。例えばね、原紙がたくさん湿気を吸うとる日なんかは、刃の音が違いますけぇ」

実は、中小企業の自動化で、いちばん難しいのは、ここなんですよね。
精度は圧倒的に機械が上回ります。
でも、日によって変わる材料、季節、機械の癖まで含めて、要求品質を同じ水準に保ち続けることは、40年の経験の方が、まだはるかに上なんです。

拓也さんは、計画を組み直しました。
検査工程は、予定どおり自動化する。
そのうえで、これまで各ラインにばらばらに置いていた検査担当をまとめ、シゲさんに、全ラインの最終品質管理を任せる。

自動化はしたけれど、品質は、40年のベテランが見て管理しています。
そう言える体制になったうえ、検査の人手は全体として減り、手直しや返品のロスも抑えられるわけです。

この判断は、「情け」で人間工程を残したのではなく、立派なコストリダクションです。

実は、私自身、会社員時代に人事の仕事で、合理化で生まれた余剰人員を「その後、どう活かすか」を考える業務に携わっていましたので、ほんとうに納得の判断だと思いました。

人を減らす合理化よりも、人の経験を一番効く場所に置き直す合理化の方が、長い目で見て、会社を強くする。
現場で何度も見てきたことです。

会長は、新しい稟議書を見て、黙って判を捺したそうです。
もちろん、その顔は満足げだったそうです。

観点最初の稟議書組み直した稟議書
シゲさんの見え方検査工程の担当者孫を抱いて笑う、40年の品質の目
自動化の目的人手を減らすこと精度は機械、品質は経験で保つこと
コスト人件費の削減検査の一本化と、手直し・返品ロスの削減
会長の判一晩預かり黙って捺印

それは、「父親の情」というものに従った結果ではありません。
父親の一線を、拓也さん自身の合理性で形にした結果だったのです。


「存在論理」は、言葉では残らない

ここまで読んで、「おぉ!結局、いい話じゃないか」と感じた方もいるかもしれません。

そうなんです。
「存在論理」というのは、言葉や文章にした瞬間、どうしても綺麗ごとに見えてしまうのです。

「社員の家族の顔を思い浮かべて判を捺せ」と手帳に書き残しても、二代目の手は、たぶん動きませんよね。

会長の「存在論理」が拓也さんに届いたのは、言葉としてではありませんでした。

リーマンの夜に名簿をめくっていた手。
孫の写真の話をした時の、あの表情。
そういう「場面」として、届いたんです。

では、言葉にならないものを、どうやって次の代に手渡すのか?という疑問が出てくるはずです。
その話は、このシリーズの最後に、ゆっくりお話ししますので、楽しみにしていてくださいね。


拓也さんへ

父親が判を止めた時、それを「古い情」だと感じる日もあると思います。
それは、ごくごく当たり前の反応です。

でも、止まった判の奥には、“数字の向こうにいる誰かの顔”が、きっと見えていることに思いを寄せるべきだと思います。

もしも次に稟議書に判を捺す時、たった一人だけでいいので、社員の顔を思い浮かべてみてはどうでしょうか?
その一人から、あなたの円は、少しずつ広がっていくはずなのです。

「存在論理」という難しそうな名前が、思わぬ方向に向きましたか?
でもね、これが、あなたの父親が、40年もの長きにわたって会社を存続させてきた、計画深層論理の一端であり、最も重要なことなのです。


もしも、この「先代の判断の奥にある一線」というテーマにご関心を持たれた方は、ぜひ以下のHUB記事もあわせてお読みください。

【HUB記事】
親子間の事業承継がうまくいかない本当の理由──会社は継げても、先代の「思考資産」は継げていない
https://shikou-shisan.com/business-succession-truth/


※「思考資産」とは?……もしよければ、私の著書「思考資産」を読んでみてください。

それではまた、お会いしましょう。


「思考資産」承継デザイン研究所
霧香ゆうひ
デコーダー/心理カウンセラー/作家


著者プロフィール
kirika-yuhi

著者:詳細プロフィール

「思考資産」承継デザイン研究所 
所長: 霧香 ゆうひ(夕燈) デコーダー/心理カウンセラー/作家

1961年生まれ。広島を拠点に全国の事業承継現場で、経営者と後継者の「魂の同期」を支援する専門家。
30年のHRキャリアで組織の力学を、14年の心理カウンセラー経験で人間の深層心理を、11冊の著書を通じて言葉の精錬技術を磨いてきました。

この三つが交わる場所に、私の専門領域があります。

私が提唱する「思考資産」とは、経営者の脳内に点在する「記憶・判断・哲学」をデコード(解読)し、次世代が迷わず使える「経営深層論理(DDL)」として構造化したものです。

法的・税務的な手続き(箱の整理)は専門家に委ね、私はその「中身(魂)」を救い出すことに全力を注ぎます。

一人の経営者の暗黙知を救うことは、組織を救い、文明が積み上げてきた知恵の総量を守ることに繋がる——これが、私がこの仕事を続ける理由です。

3万人超の事業承継・組織再生の現場に伴走してきた、日本唯一のデコーダー。

霧香ゆうひ

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