「親父なら、どうするだろうか?」 …ハワイでバカンス中の親父に、その電話をかけられなかった夜
事業承継で、先代の思考資産を後継者に手渡す方法
お昼、ちょうど12時に会長からLINEが届きました。
ハワイのゴルフ場で、引退した会長仲間たちと、真っ黒に日焼けして笑っている写真だけが送られてきたのです。
しばらくして「気持ちええでぇ!今日は、ベストスコアじゃ」
ハワイは夕方の17時でしょうか、これから夕陽でも見ながらビールを楽しむのでしょう。
会長とは言え父親です。
満面の笑みで楽しそうにしている姿を見て、ついついこちらも気分が上がります。
ところがその夜のことです…。
拓也さんは、パソコンのディスプレイに映し出された、一通のメールを前に、完全に固まっていました。
一番の大口の取引先から、来期の単価を8%下げてほしい、という要求メールです。
今の時間、時差を数えると、向こう(ハワイ)は夜中の二時です。
いや、たとえ昼間であっても、あの満面の笑顔に水を差すような電話は、かけられません。
「こんな要求が来たとき、親父ならどうするだろうか?」
その答えを聞ける相手が、今は、いない。
6,000km以上離れた楽園で、昼間のゴルフの余韻に浸りながら寝ているはずです。
さぁ、どうしましょうか?
30 Seconds Summary
先代の判断の奥には、筋の通った「型」がある。
それがわかっていたとしても、いざ自分が一人で判断する場面に直面すると、後継者の手は止まり、身体と思考がフリーズします。
型を「知っている」ことと、その型を「持っている」ことは、まったく別のことだからです。
この記事では、これまで紹介してきた経営深層論理(DDL)の三層である、「あそこだけは、値上げはせん」(信用論理)、「金は、寝かせとけ」(生存論理)、「顔の浮かばんまま、判は捺さん」(存在論理)と続いた、同じ親子のシリーズの最終回として、私がデコードした先代の思考を、どうやって後継者に手渡すのかをお話ししてみます。
経営深層論理(DDL)の締めくくりであり、最大の核心となる記事です。
この記事は、あなたのために書きました
拓也さん(仮名)、44歳。
包装資材の製造会社を、父親から継いで5年目です。
これまでの、三つの記事を通して、父親の口癖や判断の奥に、「生存・信用・存在という三つの論理」が通っていることを知りました。
それでも、いざというときに父親が一週間いないだけで、こんなに心細くなる。
この記事は、そんな拓也さんのために書きました。
そして、「親父の考えはわかってきた。でも、いつまでも隣にいてくれるわけじゃない」と、どこかで気づき始めているあなたのための記事でもあります。
一人きりの夜に、一体何が起きていた?
「単価8%」という数字は、拓也さんの会社にとって、決して軽いものではありませんでした。
何せ、その取引先だけで、売上の二割近くを占めているのですから。
これは、会社にとっての一大事です。
しかも、担当者からのメールには、こう添えられていました。
「他社さんからは、すでにご了承をいただいております」
私はこの時の話を後から聞いたのですが。
実は拓也さん、一度は、“了承の返信”を書きかけたそうなのです。
もちろんそうですよね、要請を断って、万が一にも取引を切られたら、という不安の方が、ずっと大きかったからでしょう。
当たり前の揺れだと思います。
ところが、一旦了承の文面を打ったにもかかわらず、送信ボタンに指をかけたところで、手が止まりました。
どうしても、「何かが引っかかるような正体の分からない違和感」が、あったのです。
しばらく考え込んで、ぼんやりとですがその正体が見えたようです。
「もしも親父なら、こんな返事は、絶対に書かない。」
それだけは、確信がもてたそうです。
もちろん、手を止めた違和感の正体もコレだとわかったようです。
でも、じゃあ、どう書くのか?
そこから先が、まったく出てこなかったと言います。
「これまでの三回ともね、隣で聞いていたから、親父の考え方は、わかっているつもりだったんですよ。だけどねぇ、いざこんなメールを前にすると、どの話をどう使えばいいのか、まるでわからなくて…さっぱりです」
後日、拓也さんは、少し悔しそうに、そう話してくれました。
その悔しそうな顔を私もなかなか忘れがたいほど、印象に残っています。
大きな枠での論理は理解したつもりでいても、いざそれを実地で使うとなれば、怖いほどのプレッシャーが、思考を止めてしまいます。
それは、とても普通のことだと思います。
でも、現社長として、誤りのない判断をしたうえで、返事をしなければならない。
数十人の社員とその家族の生活を守らねばならない、会社のトップにいるわけですから。
型を「知っている」のに、手が止まる理由
ここまで読んで下さったあなたならきっと、もうお気づきですよね?
実はこれ、拓也さんに限った話ではないんです。
哲学者のマイケル・ポランニーは、著書『暗黙知の次元』(1966年)の中で、「私たちは、言葉にできるより多くのことを知っている」と述べました。
(覚える必要はありませんが、なるほどね、くらいは知っておいて損はないことですね)
想像してみて下さい。
自転車の乗り方を、言葉で完全に説明できる人はいませんよね?
それでも、自転車に乗れる人は乗れる。
だけど、自転車に乗れない人にいくら言葉で説明しようが、完璧な説明書を作ろうが、それで自転車に乗れない人が、乗れるようになることはないんです、絶対に。
何が言いたいかと言うと。
実は知識には、言葉で受け渡せる部分と、身体に沈んでいて言葉にならない(渡せない)部分がある、ということなのです。
ここまでの三部作でデコードしたのは、どれも「過去の場面」でした。
平成の金融危機の夜、リーマンショックの名簿、孫を抱いた写真。
言葉としては、拓也さんの中に、ちゃんと残っています。
でも、目の前にあるのは、まだ誰も経験したことのない、新しい値下げ要求です。
過去の答えを覚えていても、新しい問題を解くことはできませんよね。
だから、必要なのは、答えではなくて、「解き方」なんですよね。
私は、会社員時代に人事の仕事を長く続けてきましたが、同じ光景を何度も見てきました。
会社には当然ですが、業務マニュアル(標準手順書)などが、完備されているはずです。
だけど、どれだけ丁寧なマニュアルを渡したとしても、ベテランが抜けた翌月、現場は同じところで止まります。
なぜか?
それは、引継ぎ用のマニュアルに書かれていたのは手順であって、ベテランが手順の外で何を見ていたかは、どこにも書かれていなかったからなのです。
わかりやすく言うと、いつも軽々と自転車に乗っているベテラン先輩を見てきた。そしてさらに、そのベテラン先輩が書き残した直筆の「自転車の乗り方マニュアル」が目の前にある。
これだけ揃っていれば、誰だって自転車に乗れると思うのです。
つまり、業務マニュアルがあれば、ベテラン先輩の仕事を再現できると…。
本来ここに必要なのは、現代では“死語”になりつつあるのかもしれませんが、「伝承」なのです。
ただ、経営者の「意思決定の判断基準」というものは、そう簡単に伝承すらできないのが現実なのです。
そうか…、だったらどうすればいいのでしょうか?
実は、ここからが面白いところです
あの夜、拓也さんは、結局、一睡もせずに考えたそうです。
そして、その考え方を聞いて、私は思わず、うなずいてしまいました。
拓也さんは、まず、手帳に書き留めていた“会長の言葉”を読み返したそうです。
そして、ふと目に留まったのが。
「もしもあの時、あそこの社長が前払いしてくれんかったら、会社は終わっとった」
という一文でした。
誰との信頼を守るのか?
今回単価の値下げを言ってきた取引先は、会長の言葉にある「あそこ」と同じ重さなのか?
確かに付き合いは長いし、受注も多い。
けれど、危機の時に、傘を差してくれた相手ではない。
少なくとも、同業他社に倣って、向こうの言いなりになる理由はない、と思えたそうなのです。
次に拓也さんは、頭の中で、会長にこう問いかけてみました。
「親父、この8%を飲んだら、資金繰りはどうなる?」と。
すると、あの声が返ってくる気がしたそうです。
「慌てて返事をするな。資金が半年持つのなら、まだ考える時間はある」
でした。
拓也さんは考えました。
手元には、半年分の現金がある。
だとすると?
そう、相手は他社は要求を飲んだからおたくも早く返事をしろと言わんばかりの一方的な連絡だが。
考えてみれば、今夜中に返事をしなければならない理由は、どこにもないんじゃないか?と。
そして最後に、目を閉じて、大きく深呼吸してから、あの日の会長の顔を思い浮かべました。
孫の写真の話をした時の、少し照れたような顔です。
そして、自分にこう聞きました。
「今、俺がやろうとしているこの判断の向こう側に、誰の顔が浮かんでいる?」
この8%を飲めば、仕事は減りません。
だけど、その結果、しわ寄せはどこかで必ず現場に回ります。
真っ先に浮かんだのは、検査工程の自動化の後、全ラインの最終品質を任せたばかりの、シゲさんの顔でした。
その瞬間に、答えが見えたそうです。
いわゆる、腹が括れた瞬間とでも言うのでしょうか?
「そう言えば、シゲさんの品質管理の体制って、まだどこにも売り込んでいないよなって」
翌朝、拓也さんは、取引先に返事をしました。
端的に、値は下げない。その代わり、40年のベテランが全ラインの最終品質を見る新しい体制を、品質保証として提案する。
というものです。
手直しや返品のロスを減らせることは、結果的に相手にとっても、8%の値下げ以上の価値になるはずだということを訴えたそうです。
取引先の担当者は、「一度、工場を見せてください」と答えたそうです。
正直、この判断と結果がいつも保証されるものではないということくらいは、わかっているはずです。
ですが、今回、絶対に引きさがらなかったのは、父親の経営深層論理(DDL)が、確かな形で、後継者に引き継がれていたからということではないでしょうか?
単価を8%下げるという要求を突っぱねた格好になりましたが、不良品の返品、戻りを劇的に下げる品質管理体制を提供することで、8%の値下げに応じた他社以上の価値を提供したことで、後日、工場を見学した担当者からは、担当者の顔も立ち、互いの利益に供したという評価をされたとのことです。
ここでは、実際のエピソードを元に、経営深層論理(DDL)の三層の重要性をお伝えしましたが、どうでしょうか?
でも実は、注目して欲しいのは、拓也さんは会長のマネをしたわけではないというところです。
つまり、会長の経営深層論理(DDL)を引き継いだことで、それを土台に置いた、自分らしい、自分の信念に従った経営が出来るようになったという点なのです。
三つの方向から見て、初めて「形」が見える
拓也さんがあの夜にしたことを、少し整理してみます。
一つ目は、書き留めた言葉を読み返すこと。
二つ目は、頭の中で、親父と対話すること。
三つ目は、親父の表情を思い出すこと。
実は、これは、私がデコーダーとして先代の思考資産を手渡す時に使っている、三つの道具と同じ構造なんです。
| 道具 | 残すもの | あの夜の拓也さん |
| 回顧録(Think Asset) | 論理と言葉 | 手帳の言葉を読み返した |
| AIエージェント(Think Legacy) | 対話できる判断の型 | 頭の中で親父に問いかけた |
| 映像回想録(Think Imagery) | 表情・声のトーン・間 | あの日の顔を思い浮かべた |
どれか一つだけでは、足りないんです。
言葉だけなら、「金は寝かせとけ」は、文字にした途端、昭和の古い習慣にしか見えません。
対話だけなら、判断の筋道は返ってきても、会長が稟議書を一晩預かった、あの重さは伝わりません。
映像だけなら、心は動いても、8%という数字に、どう当てはめればいいかがわかりません。
暗黙知は、一つの方向から見ても、必ずどこかを取りこぼします。
三つの方向から見て、初めて、その形が立ち上がってくる。
私は、これを「3点観測」と呼んでいます。
そして映像回想録には、もう一つ大事な役割があります。
同じ映像でも、平常時に見るのと、追い込まれた時に見るのとでは、届き方がまるで違うんです。
だから私は、先代に「本当に苦しい時に、繰り返し見なさい」という一本を、必ず残してもらうことにしています。
ちなみに、三つの道具の中身は、どの親子にも同じものを当てはめるわけではありません。
先代の語り方も、後継者の受け取り方も、一組ずつ違いますからね。
だから、その親子に合わせて、毎回、形を変えています。
私がお手伝いする「思考資産」の受け渡しは、全てがオーダーメイドなのです。
拓也さんは、たまたま運がよかっただけ
ここで、一つ、正直なことを言わせてください。
拓也さんの手が動いたのは、三回とも、デコードの場に隣で立ち会っていたからです。
言葉も、問いも、表情も、たまたま自分の中に残っていました。
でも、先代が40年で下してきた判断は、三つや四つではありません。
隣で聞けなかった判断の方が、はるかに多いんです。
だって、40年ですよ!きっと数えたら“無数”だと思います。
そして、父親は、いつまでも元気にハワイから帰ってくるわけではありません。
だからこそ、デコードした思考を、論理・対話・映像という三つの形で、外に残しておく必要があるわけです。
それこそが、私が「思考資産」と呼んでいるものの正体です。
ここまでのシリーズを、一本の線にすると、こうなります。
| 段階 | していること | シリーズで言えば |
| DDL(経営深層論理) | 先代の判断を三つの層で捉える | 生存・信用・存在の三部作 |
| デコード | 本人も言葉にできない理由を取り出す | 「そう言えば」の瞬間 |
| 3Tools | 取り出した思考を、手渡せる形にする | 今回の記事 |
| 思考資産 | 後継者が自分の判断に使える土台 | 拓也さんの返事 |
親父の答えではなく、親父の解き方で
一週間後、会長は真っ黒な顔で帰ってきました。
拓也さんが「値下げ、断りました。代わりに、シゲさんの品質体制を提案しました」と報告すると、会長は、しばらく黙っていたそうです。
そして、こう言ったそうです。
「そうか……ワシならば、何も言わずに黙って断るだけじゃったろうな。品質でもって値下げ以上の価値を返すいうのは、もしかしたら思いつかんかったかもしれんの」
それから、少しだけ笑って、こう付け加えました。
「電話でも、してくりゃよかったのに」と。
拓也さんは、「ベストスコアの日に、かけられるわけないだろ」と笑って返したそうです。
それは、父親の答えをなぞった判断ではありませんでした。
父親の「解き方」を使って、拓也さんが自分の地図を描いた判断だったのです。
先代の「思考資産」を受け継ぐことは、先代に縛られることではありません。
先代の解き方を手にしたうえで、自分の経営を描く自由を得ることなんです。
こんな手厳しい質問が来そうですね。
「そんなことができるか?」と。
「はい、できます!」と、私は自信を持ってお答えします。
拓也さんへ、そして、あなたへ
私は、「思考資産」という言葉を広めたくて、この記事を書いているわけではありません。
「親父なら、どうする」と、一人でスマホを握りしめる夜を、一つでも減らしたい。
ここまで読んで、何か一つでも動いてくださった方の苦しみが、少しでも軽くなればいい。
願っているのは、ただただ、それだけなんです。
父親が、元気にゴルフを楽しめている今のうちに。
もしも、この「先代の思考を、どう手渡すか」というテーマにご関心を持たれた方は、ぜひ以下のHUB記事もあわせてお読みください。
【HUB記事】
親子間の事業承継がうまくいかない本当の理由──会社は継げても、先代の「思考資産」は継げていない

※「思考資産」とは?……もしよければ、私の著書「思考資産」を読んでみてください。
それではまた、お会いしましょう。
「思考資産」承継デザイン研究所
霧香ゆうひ(夕燈)
デコーダー/心理カウンセラー/作家


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