三代経てば、あなたも「名前も知らないご先祖様」になる。
あなたは、自分の曾祖父母、8人、すべての名前を言えますか?
その問いの先に、この話はあります。
実は、あまり語られないこの事実の中に真理があるのです。
30-Second Summary
あなたの親は2人、祖父母は4人。
ここまでは、ほとんどの人が当たり前のように答えられます。では曾祖父母、8人の名前は言えるでしょうか。
多くの人は、ここで言葉に詰まるはずです。
つまり、たった三代で、人は「名前も知らないご先祖様」の一人に括られてしまうわけです。
当然のように、これは、あなた自身にもいずれ起こることです。ひ孫の世代から見れば、あなたもまた、名前すら知られない存在になっていく。
この記事では、この事実がなぜこれほど心をざわつかせるのかを、心理学の「象徴的不死性」という視点から整理し、名前を残すことと、思考を残すことの決定的な違いについてお伝えします。
事実、三代も経てば、あなたも「名前も知らないご先祖様のひとり」になります
いきなりですが、ちょっと、質問させてください。
あなたの親(両親)は、何人ですか?
そりゃあ、当たり前ですが、2人ですよね。
では、あなたの祖父母は?
こちらも当たり前ですが、4人です。
もちろん、ほとんどの場合、名前も、顔も、だいたいの人生も、なんとなく思い浮かぶはずです。
仮に都会住みでも、帰省などで会う機会も多いと思います。
では、曾祖父母(ひぃおじいちゃん、ひぃおばあちゃん)はどうでしょうか?
当然ですが、8人います。
さあ、あなたは全員の名前を言えるでしょうか?
……おそらくここで、詰まった方が多いのではないでしょうか?
実はこれ、これまでにたくさんの人に聞いてみると、ほとんどの方がそうなんですよね。
いいですか?たった三代ですよ。
三代さかのぼっただけで、8人のうち、名前を一人も言えない人がいる。
これは、その方たち8人全員の生きた証が薄かったからではありません。
実をいうと誰にでも、平等に起きることなんです。
もちろん今のように、スマホで簡単に写真や動画を残せる時代じゃないから、伝え聞くくらいしか、その存在を知る手段はないと思いますが。
それでも、写真や動画が残っていたとしても、その8人それぞれが、どんな生き方をしてきて、今の自分の命が継がれているのか?
そんなことは、普通に考えて、絶対に三代先(ひ孫)まで受け継がれることはありません。
三代経てば、誰もが「ご先祖様」に括られる
ここで、少し視点を変えてみます。
あなたが今、曾祖父母の名前を言えないのだとしたら。。。
当然のように、あなた自身もまた、あなたのひ孫から見れば、同じ立場になるはずです。
「おじいちゃんのそのまたおじいちゃんって、なんか、会社をやってたらしいよ」
そんな一言で片付けられる存在に、あなたもいずれなるということです。
しかも何もしなければ、100%そうなります。
これは、特別に不幸な誰かにだけ起きることではありません。
歴史上の偉人でもない限り、人はほぼ例外なく、三代でこの扱い(ご先祖様)になります。
どれだけ会社を大きくしても、どれだけ地域で信頼されていても、です。
厳しい話だと思いませんか?
でも、これは脅しではなく、単純な統計的事実に近いものなんです。
では、今日はなぜこんな「怖い話」をしているのでしょうか?
なぜ、この事実はこれほど心をざわつかせるのか?
正直に言うと、この話(真実)を聞いて、まったく心が動かないという人は、あまりいません。
ではなぜ、これほどまでに心がざわつくのでしょうか?
過去の研究からその謎を紐解いてみましょう。
私の専門分野の心理学に、恐怖管理理論(Terror Management Theory)という考え方があります。
心理学者ジェフ・グリーンバーグ、シェルドン・ソロモン、トム・ピジンスキーらが提唱したもので、人間は、自分がいつか必ず死ぬという事実を、常にどこかで意識しながら生きている生き物だ、という前提に立っている理論です。
そしてこの理論の中に、象徴的不死性(Symbolic Immortality)という概念があります。
人は、肉体が消えることそのものよりも、「自分という存在の痕跡が、この世から完全に消えてしまうこと」を、より強く恐れる、という考え方です。
だからこそ人は、記憶や功績、子孫や作品といった、何かしらの「象徴」という形で、自分が生き続けようとします。
子どもを育てる。
会社を残す。
本を書く。
銅像が建つ。
すべて、この象徴的不死性を求める行為だと説明されています。
「曾祖父母の名前を言えない」という話が刺さるのは、まさにこの象徴的不死性が、脅かされる瞬間だからなんです。
たとえるなら、これは、湖に石を投げ込むのと似ています。
石が水面に落ちた瞬間、大きな波紋が広がります。
でも、その波紋は、時間とともにどんどん小さくなり、最後には湖面はまた静かに戻ります。
石そのものは、湖の底に、確かに沈んでいる。
でも、波紋という「見える形」は、いずれ消えてしまう。
私たちが恐れているのは、石が沈むこと(=死そのもの)ではなく、波紋が消えること(=誰の記憶からも、痕跡からも消えること)なのだと思います。
この理論的な人間の心理から紐解くと、非常にわかりやすいですよね?
名前が残っても、あなたの思考は残らない
実はここで、さらに一つ厄介な事実があります。
仮に、あなたの名前が、家系図や過去帳にしっかり残っていたとします。
写真も、何枚か残っているとします。
もちろん、先ほども触れましたが、家族のスマホの中にも、写真はスマホの容量を圧迫するほどあると思います。
でも、考えてみてください。
その写真に、あなたが何を大事にして生きてきたのか。
どんな判断を、どんな理由でしてきたのか。
何を守り、何を諦め、何に賭けてきたのか。
これは、名前や写真だけでは、絶対に伝わりませんし、残りません。
たとえば、古い家に残された一枚の写真を思い浮かべてみてください。
もしかしたらそこに写っているのが誰なのかは分かる。
もしかすると、ひぃおじいちゃんかもしれませんね。
でも、その人が何を考えていたのか、写真は何も語ってくれません。
ここでお分かりいただけたと思う尾ですが、「記録」と「思考」は、まったく別物なんです。
名前や年表は、これら「記録」として残るものです。
だから、最近ほんとうに流行っている「自分史」というのは、記録という意味合いが強い、ほぼ年表の要素が強いものです。
一人の人間がどう判断して、どう生きたかという中身は「思考」そのものなんです。
写真や年表には残しようがありません。
そして、多くの場合、消えていくのは記録ではなく、思考のほうなのです。
ちょっと例えが極端で申し訳ないですが、太平洋戦争の末期、特攻隊として飛び立つ前に、笑顔でゼロ戦の前に立つ「若者たち」の写真を見たことがありませんか?
彼らの笑顔はあまりにも悲しすぎる記録として残っています。
でも、時折り「愛する人に向けた短い手紙」を目にしたことはありませんか?
私は、あの手紙を「世界短い回顧録」と呼んでいます。
彼らの本心は誰にもわかりませんが、愛する人への手紙からは、「やりきれない無念」が滲み出ているとしか見えないのです。
(もちろんこれは私の個人的な思いですが。)
話を戻しましょう。
あなたのご先祖も、もしかすると名前くらいは、探せば戸籍や過去帳に残っているかもしれません。
ですが、その人の頭の中にしかない、理念や生き方、経験から積み上げた判断基準は、探しても、どこにも書かれていません。
絶対に。
自分史でも、一般的な回顧録でも、足りない理由
「では、自分の人生を書き残しておけばいいのでは?」と思われるかもしれません。
実は現代において、ここに大きな落とし穴があります。
一般的に、人生を書き残す方法には、大きく2つの型があります。
一つは、自分史です。
生まれた年、進学、就職、結婚、創業といった出来事を、年表のように並べていく形式です。
もう一つは、一般的な意味での回顧録です。
本屋で見かけるような、政治家や経営者が出版する、印象的なエピソードを物語として綴っていく形式ですね。
もちろんどちらも、それ自体は価値のあるものです。
でも、どちらも「何をしたか」は残せても、「なぜそう判断したか」までは、ほとんど残せません。
なぜなら、不思議なことに本人自身ですら、自分の判断基準を、自覚できていないことが多いからです。
長年経営をしてきた方に、「なぜあの時、あの判断をしたのですか?」と聞くと、こう返ってくることがよくあります。
「いや、まぁなんとなく、そうしたほうがいいと思ってね」
これは、謙遜でも、はぐらかしでもありません。
本当に、本人ですら言葉にできないんです。
なぜかというと、過去の経験を通じて体に染み付いた判断は、本人にとっては、もう当たり前すぎて、わざわざ言語化する必要がなかったものだからです。
だからこそ、自分一人でどれだけ丁寧に自分史や回顧録を書こうとしても、この部分だけは、どうしても抜け落ちてしまいます。
それはつまり、ほとんどの人間は、自分の脳内を「構造化」などしていない。
ということなのです。
これを整理すると、次のようになります。
| 形式 | 残せるもの | 残せないもの |
| 自分史 | 経歴・出来事の年表 | 判断の理由・優先順位 |
| 一般的な回顧録 | 印象的なエピソード・物語 | 一貫した判断基準の構造 |
| 霧香式回顧録 | 判断基準そのものの構造化(思考資産) | – |
もちろんですが、自分史も、一般的な回顧録も、「その時に何が起きたか?」を残すには十分な形式です。
でも、「なぜそう判断したのか」という、経営者にとっての、経営における一番の核心は、この2つの形式では、そもそも扱う対象になっていないのが、真理なのです。
では、どうすればいいのか?
霧香式「回顧録」という選択
ここまで読んで下さった方の中には、少し不安になった人もいるかもしれません。
なぜなら、自分ですらわからないものを言語化できない。
だとしたら、自分が消えるのと同時に、全てが消え去ってしまうのかと。
でも、だからこそ必要なのは、本人が一人で書くことではなくて、本人の中に眠っている判断基準を、外側から丁寧に聞き出(デコード)して、構造として取り出す作業なのです。
しかし残念ながら、これには非常に高いハードルがあります。
でも、だからと言って、決して不可能なことではありません。
それが、私が主催する「思考資産」承継デザイン研究所で言う「霧香式回顧録」です。
年表を並べるのでも、感動的なエピソードを美しく綴るのでもありません。
あなたがどんな場面で、何を優先し、何を守り、なぜその選択をしてきたのか。
その一つひとつを対話の中で解きほぐし、経営深層論理(DDL)として構造化していく作業です。
これは、あなた自身の名前だけを残すための作業ではありません。
あなたが「どう生きたか」を、ひ孫の世代にまで、いえ、もしかすると永続的に届く形にするための作業なのです。
三代経てば、あなたの名前は、いずれ誰かにとって「知らないご先祖様」になります。
それは、怖いことですが、避けられない事実です。
でも、その先の世代が、もしいつか、あなたの判断や生き方に触れる機会があったとしたらどうでしょうか?。
「名前も知らない先祖」ではなく、「こういう考え方をしていた人だったんだ」という形で、あなたに出会い直すことができたとしたら。
それは、単なる記録以上の、もう一つの生き続け方なのではないかと思います。
この「霧香式回顧録」の目的は、先代経営者の脳内にしかない判断基準を次代に遺すことが、主な目的であることは間違いありません。
しかし、今日の話を読まれたらおわかりのように、それは単に、父から息子へバトンを渡すだけの作業ではなくて、先代の脳内を「思考資産」と定義して、それに永続性を持たせるという、少し壮大なProjectでもあるのです。
もしも、この「思考として残す」という選択に関心を持たれた方は、ぜひ以下のページもご覧ください。
【回顧録という選択とは】 自分史でも、自伝でもない。回顧録という選択
【霧香式回顧録の詳細を見る】 「思考資産」承継デザイン研究所

コメント