「もっと早く、本音で話していれば」— 黒字廃業という後悔の構造
なぜ経営者は、分かっていながら動けないのか?
着手の遅れと対話の不在という「二つの遅れ」が引き起こす、静かな崩壊の構造的&心理的メカニズム
親族間、特に親子間での事業承継を境に、制度として、或いは手続き的には完璧な処理が行われたはずなのに、わずか1~3年で、黒字廃業という結末に至る中小企業が非常に多く、現在大きな問題になっています。
実を言うとその多くが、一つの共通した構造をたどっていることが見えてきます。
それは、「親族間で本音の対話をしてこなかったこと」が「事業承継の着手を遅らせ」、気づいたときには、もう他の選択肢——後継者の育成も、M&Aによる譲渡も——を取る時間が残されていない、という構造です。
これは、決してあなたの経営判断が甘かったからではありません。
人間の脳に備わった「正常性バイアス」という、ごく自然な心理機制が働いているからなのです。
今日のこの記事では、その構造を、データと共に紐解いていきます。
ぜひ、参考にされてください。
先月の話です。
同業者組合の集まりで、ある会社の名前が話題に上りました。
創業45年。
地元では名の知れた、堅実な会社でした。
しかも、経営は極めて健全で、当然赤字ではありません。
むしろ直近の決算は、過去5年で最も良い数字だったといいます。
実はその会社が、廃業を決めたのです。
「後継者がいなかったらしい」
「もっと早く、誰かに相談していれば」
——そんな言葉が、集まりの席で静かに交わされていました。
もしかすると今、あなたは、この話を聞きながら、心のどこかで、こう思いませんでしたか?
「あぁ、それなら、うちは大丈夫だ」と。
もっと正直に言うと、少し安心もしたはずですがどうですか?
うちには、まだ時間がある。
うちには、跡取りの目星もついている。
そう考えて、その日の話題は、記憶の隅に静かにしまい込まれました。
ただ、ここで一つだけ、確認させてください。
その「大丈夫」に、明確な根拠はありますか?
ほんとうに大丈夫ですか?
「まだ大丈夫」という、経営者だけがかかる魔法
これは、あなたの危機感が足りないからではありません。
少し私の専門分野からの話をします。
人間には、正常性バイアスという心理機制が備わっています。
自分にとって都合の悪い情報や、明らかな異常のサインを目の前にしても、
「これはまだ、正常の範囲内だ」
「大したことにはならないだろう」と、
無意識に過小評価してしまう心の働きです。
災害心理学の分野で最もよく研究される現象なのですが、これは火事や地震のときだけに起きるものではありません。
もっと静かに、もっと長い時間をかけて、経営者の日常にも、同じ機制が働いています。
体力の衰え。
後継者が決まっていないという事実。
取引先からふと漏れる「そろそろですね」という一言。
これらは、本来なら見過ごせないはずの異常のサインであるはずです。
けれど、あなたの脳は、それを「まだ大丈夫」という一言で、静かに処理してしまいます。
こんなに一大事なはずなのに、なぜでしょうか?
理由は、あなたが40年、あるいはそれ以上、修羅場を乗り越えてきた実績があるからです。
オイルショックも、リーマンショックも、乗り越えてきた。
「今回も、何とかなる」という確信は、根拠のない楽観ではなく、あなた自身の輝かしい成功体験そのものが生み出す、極めて合理的に見える誤作動なのです。
皮肉な話ですよね。
優秀な経営者であればあるほど、この罠にかかりやすいのですから。

二つの遅れは、セットで進行する
正常性バイアスは、具体的にどんな形で、あなたの会社に影響しているのでしょうか?
実際のデータを見ながら説明してみます。
中小企業庁の調査によれば、事業承継の準備には、本来3年から5年、規模の大きな企業であれば5年から10年が推奨されています。
しかし現実はそうはいきません。
実際に多くの経営者が準備に着手するのは、60代後半から70代になってからがほとんどです。
健康不安や体力の限界という、いわば「待ったなし」の状況に追い込まれてから、ようやく動き出しているのが実際です。
日本政策金融公庫の調査では、60代以上の経営者のうち約半数が「後継者が決まっていない」と回答しています。
さらに、数年以内の廃業を予定している企業のうち、3割から4割は、黒字にもかかわらず廃業を選んでいるというデータもあります。
この二つの事実が何を意味するか、お分かりですよね?
もちろん、今はまだ「まぁ、うちには関係ない話だな」と、思われているでしょう。
これだけでも十分に重い数字なのですが、さらにもう一つ、見過ごせないデータがあります。
それは「なぜ着手が遅れるのか」の、その手前にある原因です。
事業承継計画を持たない企業の約6割が、
「家族間の衝突を避けるため」
「まだ早いと思っているから」
という理由で、対話そのものを後回しにしているというデータです。
特に、引退や株式、相続、個人保証といった、デリケートな話題については、経営者の3割から4割が「オープンに話し合うことに、心理的な抵抗を感じる」と答えています。
つまり、「着手の遅れ」の、さらに手前に「対話の不在」があるのです。
この二つは、別々の問題ではありません。
一つの根から伸びた、二本の枝なのです。
ここで、頭の中の想定と、実際に起きていることのギャップを、一度整理してみます。
| あなたの頭の中の計画 | 実際に起きていること | |
| 準備の開始時期 | 「いずれ、しかるべき時が来たら」 | 60代後半〜70代、体調の限界がきっかけ |
| 後継者との対話 | 「言わなくても、分かっているはず」 | 約4割の親子間で、意思の乖離が発生 |
| 準備にかかる時間 | 「そのとき考えれば、間に合う」 | 本来必要なのは3〜10年 |
| 想定している選択肢 | 「後継者に継がせる、それだけ」 | 数年前ならM&Aや従業員承継も選べた |
ちょっと、胸が痛くなる表かもしれませんね。
ちょっと、コーヒーでも飲んで、深呼吸してから続きを読んでいただければと思います。
「いつでも話せる」という、親族だけの甘え
しかし、考えてみたら不思議に思いませんか。
あなたは、取引先や銀行との交渉では、誰よりも早く、誰よりも率直に本音を切り出せる人のはずですよね?
それなのに、なぜ、自分の息子とだけは、本音を切り出せないのでしょうか。
これは、心理的な距離の、ある種の逆説です。
他人が相手なら、「今日話さなければ、次の機会はもうないかもしれない」という緊張感が働きます。
だからこそ、早めに、率直に話せます。
けれど、家族が相手だと、「いつでも話せる」という油断が生まれます。
この油断こそが、最も危険な罠です。
「いつでも話せる」は、裏を返せば「今日話さなくてもいい」という、先送りの許可証になってしまうからです。
「そろそろ話さんといかんなぁ、だがまぁ、明日でもいいか」
まさにこれですよね。
ある地方都市で、金属加工業を営んでいた田村さん(仮名・当時72歳)は、まさにこの罠にはまっていました。
「息子とは、いつも顔を合わせている。だから、わざわざ改まって話す必要はないと思っていたんです」
田村さんは、そう振り返ります。
しかし、実際に息子さんの本音を聞いたのは、田村さんが体調を崩して入院した、その病室でのことでした。
「あのさ、俺、親父の後を継ぐつもりは、正直、ずっとなかったんだ」
その一言を聞いたとき、田村さんの頭に浮かんだのは、絶望よりもむしろ、驚きだったといいます。
「毎日会っていたのに、俺は、一番大事なことを、一度も聞いていなかったんだ」と。
結果として、田村さんの会社は、他社へのM&Aという選択肢を探る余力もないまま、規模を大きく縮小せざるを得ませんでした。
「あと5年、いや、3年でも早く聞いていれば。選べる道は、いくつもあったはずなんです」
この、たった数行のエピソードからあなたは何を感じますか?
後悔は、いつも「あと数年」に集約される
これまで見てきた要素を、一本の線でつなげてみます。

先ほどご覧いただいた図の通り、本音の対話を避けることから始まり、着手の遅れ、後継者からの拒絶、選択肢の消失を経て、最後に黒字廃業という結末にたどり着きます。
この連鎖の恐ろしいところは、どの段階も、それ単体では「まだ引き返せる」ように見える、という点なのです。
対話を避けている今日一日だけを見れば、「今日話さなくても、大した問題ではない」と感じます。
着手が遅れている今年一年だけを見ても、「来年から本気で考えよう」と思えます。
けれど、この小さな先送りが、5年、10年と積み重なったとき、初めて「もう選べる道がない」という事実に直面します。
後悔は、いつも「あと数年早ければ」という形で、経営者の口から語られます。
あと数年、あと3年、あと1年。
この「あと数年」という言葉ほど、取り返しのつかない重さを持つ言葉はありません。
正常性バイアスは、意志の弱さではない。だから、外部の目が要る
ここで、はっきりお伝えしておきたいことがあります。
この記事は、あなたに
「もっと危機感を持ちなさい」
「今すぐ本音で話しなさい」と、
忍耐や根性を強いるものではありません。
それは、正常性バイアスという心理機制の前では、ほとんど効果がありません。
なぜなら、正常性バイアスは、あなたの意志の強さとは無関係に、脳の奥深くで自動的に作動する機能だからです。
「危機感を持て」と自分に言い聞かせれば持てるなら、そもそも人類はこれほど多くの災害や経営破綻を、繰り返してはいないはずです。
必要なのは、決意でも、忍耐でもありません。
あなた自身の内側にある「まだ大丈夫」という感覚を、外側から、客観的に指摘してくれる存在です。
家族の中にいる限り、誰も、この役割を担うことはできません。
息子は、あなたに直接「もう時間がありません」とは、なかなか言えないものです。
言えば、それは親への叱責のように響いてしまうからです。
親子だからこそ存在する壁と言ってもいいかもしれません。
だからこそ、家族の外側に、この構造そのものを扱う専門の存在が必要になります。
それは、対話を強制する存在ではなく、あなたが「まだ大丈夫」と思っている、その感覚のズレを、静かに映し出す鏡のような存在です。
今日、あなたにできる、たった一つのこと
最後に、今日からできる、ごく小さな一歩をお伝えします。
後継者と話すことでも、専門家に電話をかけることでもありません。
もっと個人的で、誰にも見せる必要のない作業です。
一枚の紙を用意して、そこにこう書いてみてください。
「もし、来月自分が倒れたら、何がいちばん困るだろうか?」と。
思いつくままに、箇条書きで構いません。
取引先への挨拶、銀行との関係、社員への説明、あるいは、まだ誰にも話していない「これだけは、譲れない」という想い。
これは、誰かに見せるためのものではありません、自分を見つめ、自分と対話するものですので自由に書いてください。
ただ、あなた自身の頭の中にある「まだ大丈夫」という感覚と、実際にあなたが抱えている不安との、ギャップを、あなた自身の目で確かめるための作業ですので、正直さは必要です。
書き終えたその紙を、誰かに見せる必要はありません。
むしろ、絶対に誰にも見せないで、ただ、引き出しにしまっておいてください。
そして、もし半年後(忘れたころ)、もう一度同じ質問に答えたとき、書く内容がまったく変わっていなかったとしたら——それは、脳内では時間が止まっているという、一つのサインであることは間違いありません。
ぜひ、「そこ」と向き合ってみてください。
数年後、「あぁ、あの時向き合っておいて本当に良かった」と、安堵されるはずです。
最後にお伝えしたいこと
今日、あなたが書き出したその紙は、まだ誰にも見せる必要はありません。
繰り返しになりますが、むしろ金庫の底にでもしまっておいてください。
そしてもちろん、ご自身も見ないでくださいね。
ただ、もし半年後、あなたが本当にその紙を後継者に渡す日が来たとしたら——その日、あなたの中で何が起きるのか。
実は、それもまた、多くの先代が経験してきた、もう一つの葛藤です。
そして、この「対話の不在」も「手放せない葛藤」も、根っこをたどれば、一つの同じ場所に行き着きます。
思考資産という、経営者の頭の中にしか存在しない、暗黙知の正体です。
さらに、この物語の全体像——先代の暗黙知が、なぜ、どのように失われ、そしてどう受け継がれ得るのか——について、もう一歩踏み込んで知りたい方のために、完全版のガイドを用意しています。
親子間の事業承継がうまくいかない本当の理由|会社は継げても、先代の「思考資産」は継げていない
あなたとの直接の対話ができることを楽しみにしています。
霧香ゆうひ


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